2016年11月26日土曜日

グスタフ クリムト

グスタフ クリムト
Gustav Klimt

私の自画像はない。
絵の対象としては自分自身に興味がない。
むしろ他人、特に女性、そして他の色々な現象に興味が有るのだ。

「接吻」1907-08
発表と同時に政府に買い取られた、彼の代表作。
崩れ落ちる宝石のようなあやうい足もとと
まばゆい黄金の光につつまれた恍惚の表情。
「愛」は「死」と共に在り、隣り合うことで輝きを増す。

 最も有名な「接吻」には、金箔が多用され絢爛な雰囲気を醸し出している。この作風は琳派の影響だともいわれている。
 
「ダナエ」1907-08
黄金の雨に姿を変えたゼウスは幽閉されたダナエを訪れる。
身をふるわせるエクスタシーを優美に表現した作品である。
ゆたかな顔の表情は、数多くの女性像の中でも絶妙にして秀逸だ。

 彼の作品は、女性の裸体、妊婦、性など、赤裸々で官能的なテーマを描く。甘美で妖艶なエロスと、常に死の香りが感じられる。

「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」1907
「黄金の時代」に描かれた肖像画の傑作のひとつで
エジプトや日本の装飾様式が見事な効果を生み出している。
彼女はクリムトの恋人のひとりだったと言われている。

「水辺の城館」1908-09
エミーリエとの避暑を過ごしたアッター湖畔の風景。
彼の風景画は、それ以外の作品とは全く違う趣を見せる。
生涯の恋人エミーリエとは、むしろプラトニックであったと言うが
ここで描くのは「輝くばかりの愛」ではなく「心の安息」なのであろうか。

 また、クリムトはかなりの数の風景画も残している。現在の日本の画家で流行っているSカンバス(正四角形)を愛用した。それは平面的、装飾的でありながら静穏で、同時にどことなく不安感をもたらす。

 世紀末のウィーンで新しい芸術の波を先導し、多くの非難や中傷を受けながらも、自らの表現を追求し続けたクリムト。時代の反感をかいながらも、徐々に彼の作品は観るものを虜にし、現在に至ってもその価値は衰えない。

2016年11月20日日曜日

タマラ




 タマラ・ド・レンピッカ(1898年~1980年)はポーランド生まれのアール・デコの画家である。彼女の個性的で大胆な作風は、ロートのソフト・キュビスム、ドニの総合的キュビスムの影響を受け、さらに急速な進化を遂げ、アール・デコ運動の冷ややかな一面と官能的な一面を統合させる。
 彼女について、ピカソは「統合された破壊の斬新さ」と語った。彼女は、印象派の画家の多くが下手に絵を描き、「汚い」色を使用していると考えていた。それに対して彼女のテクニックは、新鮮で、クリアで、正確で、エレガントだった。



 1925年、彼女は自画像を描く。『オートポートレート(緑色のブガッティに乗るタマラ)』がそれで、ドイツのファッション雑誌『ダーメ』の表紙を飾った。1974年、雑誌『オート・ジャーナル』では、この絵について、「タマラ・ド・レンピッカの自画像は、自己主張する自立した女性のリアルなイメージである。彼女は手袋をし、ヘルメットをかぶって、近づき難い。冷たく、心かき乱す美しさ、身震いさせられる——この女性は自由だ!」と。 
 狂騒の20年代、タマラ・ド・レンピッカは、パリでボヘミアン的な人生を送っていた。パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、アンドレ・ジッドとは知り合いだった。彼女の美貌、さらに彼女が両性愛者であることはよく知られていた。男性とも女性とも関係を持つことは、スキャンダラスで騒がれた。しばしば彼女は、自画像の中にストーリー性を持たせ、ヌードのスケッチは挑発的効果を生み出した。彼女は、ヴァイオレット・トレフーシス、ヴィタ・サックヴィル=ウェスト、コレットら、文壇・画壇のサークルに属したレズビアンおよび両性愛者たちと親しく交際した。さらにシャンソン歌手のシュジー・ソリドールと親密になり、後には彼女の肖像画も描いた。



 1939年から、タマラはアメリカで「長期休暇」を始めた。彼女はただちにニューヨークで個展を開いた。住まいに選んだのは、カリフォルニア州のビバリーヒルズで、ハリウッドの映画監督キング・ヴィダーの家の向かいだった。そして、ハリウッドスターのお気に入りの芸術家になった。ガルボのような仕草を身につけ、タイロン・パワー、ウォルター・ピジョン、ジョージ・サンダースといったスターたちのセットを訪問し、反対に仕事場を訪問されたりした。
 1941年頃の彼女の作品のいくつかは、サルバドール・ダリを思わせる。その後1943年、ニューヨークに居を移す。スタイリッシュな生き方を続けるが、この頃には画家としての名声はもはや失われていた。タマラは新しい作風を模索し始めた。描く対象を広げようと、静物画から抽象画まで手を出した。筆の代わりにパレット・ナイフを使ったりもした。1962年新作を出展したが好評は得られなかった。タマラは二度と作品を発表しないと決めプロ画家を引退した。しかし、絵を描くことは続け、時々旧作を新しいスタイルで描き直したりした。
 1970年代の人間は才能と「育ち」が欠如していて自分の芸術がわからないだの、不平をこぼしまくったが、全盛期の筆力と技巧を二度と取り戻すことはできなかった。1978年、タマラはメキシコに移住する。年老いた世界中の仲間と少数の若い貴族に囲まれて暮らすためだった。



 タマラは充分長生きすることができた。というのも彼女が死ぬ前に、流行の推移はすっかり一巡していたのである。若い世代がタマラの芸術を再発見し、熱烈に支持した。1973年の回顧展も大好評だった。彼女が死んだ時には、彼女の初期のアール・デコ絵画が続々と展示・販売された。彼女の人生にヒントを得た芝居『タマラ』はロサンゼルスでロングランされ、その直後、ニューヨークでも公演された。ジャック・ニコルソンは、タマラの作品をコレクションしている。2005年には、女優兼アーティストのカーラ・ウィルソンが、タマラの生涯に基づく一人芝居「Deco Diva」を演じた。



 マドンナもタマラの大ファンで、彼女の作品を集めており、イベントや博物館に貸し出したこともあった。マドンナは、『エクスプレス・ユアセルフ』、『Open Your Heart』のプロモーション・ビデオでタマラの作品を登場させ、そしてついに、冒頭にタマラの多数の作品をあしらった『ヴォーグ』のプロモーション・ビデオの衝撃は、タマラ・ド・レンピッカの世界的な大衆人気を不動のものにしたのである。

クラーナハ

クラーナハの大回顧展

 ギリシャ神話や聖書から着想された奇抜なテーマと裸体画が圧巻の企画展。同時期のフィレンツェやローマ、ヴェネツィアのイタリア・ルネサンス絵画とはまた違った面白さがある。
 クラーナハは、ドイツ、ヴィッテンベルクで16世紀前半に活躍した西洋絵画の巨匠だ。ウィーンで絵画修業を終えたクラーナハは、西ヨーロッパで強大な力を誇った、神聖ローマ帝国のザクセン選帝侯に見出され、専属の宮廷画家となった。
 王侯貴族の注文で、彼ら一族の肖像画やキリスト教のテーマに基づいた寓意画などを描いた。クラーナハの絵画は、他の貴族・王族への贈答品として外交に使われたり、選帝侯一族の権威を高めるために大いに利用されていた。
 またクラーナハは、独立採算の大規模工房を持つ優れた実業家でもあった。徒弟制に基づく彼の工房では、絵画や版画が分業体制で運営され「手足だけ描く担当」「背景担当」など絵画のパーツごとに専門家が効率的に担当していたそうだ。
 クラーナハが生きた16世紀、イタリアではすでにダ・ヴィンチらにより、一点透視図法や空気遠近法など、写実的な近代絵画技法に基づくルネサンス絵画の技法が浸透していた。
 しかし、ドイツでは、イタリア・ルネサンス絵画の影響を受けたデューラーらが出た一方で、依然として前時代的な「後期ゴシック様式」の中世的な絵画手法にとどまる作家が多かった。



 クラーナハは、「後期ゴシック様式」の香りがする絵画を描いており、ローマやフィレンツェより50~100年くらい遅れていたように見える。技術的には超一流ではない。やはり写実性ではイタリアの巨匠や、同郷の巨匠、デューラーに及ばないのは比較展示でよくわかる。
 しかし彼が同時代の画家と比較して優れていたのは、斬新な絵画テーマを採用した画題選択の革新性にあった。宗教画の文脈から、女性のヌードだけを独立して抜き出して大量生産を行った。また寓意性や風刺性に満ちた絵画テーマの選択は、ルネサンス的な精神に根ざした新しい試みだったといえる。またクラーナハは、宗教改革のマルティン・ルターと親交が厚く、ルターの宗教改革運動のイメージアップの為の「広報活動」に深く関わった。

 前述のように今回展示では、クラーナハをはじめ、デューラー、メッケネム、ショーンガウアーなど、同時代のドイツ人巨匠達の版画が比較展示されている。技巧的に一番上手なのはやはりデューラーが抜きん出ているのだが、クラーナハの得意とした「女性の妖しさ」や寓意にあふれた個性的な宗教画は、技術的には同時代の巨匠からすると見劣りは否めないが、着想のオリジナリティに、次第に引き込まれていくような中毒性がある。クラーナハやその同時代の作品が90点以上も集めた日本で初めての回顧展。期待以上の好企画だ。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ

 
 
 ヴィルヘルム・ハンマースホイ(Vilhelm Hammershøi)は、デンマークの画家だ。作品は、白・黒・灰色を基調とした抑えた色調で、時間の止まったような静寂な空気を感じさせる細密なタッチの室内画が中心だ。
 室内風景画の多くには、鑑賞者に背を向けた人物が描かれていて、その多くは彼の妻イーダだ。
 ハンマースホイは、生前にはデンマークを代表する画家として、特に国外で名声を得たが、その死後は急速に忘れられていった。再評価が始まったのは20世紀末になってからだった。
 ハンマースホイは1864年、コペンハーゲンの裕福な家庭に生まれる。1872年、8歳の時から個人レッスンでデッサンを学び始め、1879年からはコペンハーゲンの王立美術アカデミーで学んだ。1885年、21歳の時、妹のアナを描いた『若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ』を王立美術アカデミーの展覧会に出品するが、アカデミーの授与するノイハウスン賞に落選したことで、当時の美術家の間に物議を醸し話題となる。『若い女性の肖像』は、黒と灰色を主調としたモノトーンに近い色彩、曖昧な空間表現、自由なタッチなどが当時のアカデミーの趣味に合致しなかったようだ。


「若い女性の肖像」
 1888年には、コペンハーゲンの歯科医で美術コレクターでもあったアルフレズ・ブラムスンが初めてハンマースホイの作品を購入する。以後、ブラムスンはハンマースホイのコレクター・後援者として、生涯にわたり画家を支援した。ブラムスンは画家の生前にいくつかの展覧会を組織し、画家の没後には作品目録の作成や伝記執筆を行っている。
1891年にはアカデミーで知り合った画家ピーダ・イルステズの妹のイーダと結婚。彼女の姿はハンマースホイの多くの室内画に登場する。ハンマースホイはイーダとともに1898年から1909年までコペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地のアパートで暮らした。
1908年にデンマーク王立美術アカデミーの総会会員に就任し、1910年には同評議員になる。1911年、ローマで開かれた国際美術展で第一等を獲得。1910年代に入ってヨーロッパ各国で個展が開かれるようになり、評価が進んだ。
1916年にコペンハーゲンで咽頭癌で死去。晩年のハンマースホイは病弱で、1914年に母を亡くしたショックもあり、この頃の作品には未完成のまま筆を置いたものが多い。死の前年の1915年には遺作となった『室内、ストランゲーゼ25番地』という1枚の絵を制作したのみであった。

 ハンマースホイの絵画の大部分は室内風景画である。なかでも、1898年から1909年まで暮らしたコペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地のアパートの室内を描いたものが多い。このアパートで制作された室内画には同じ部屋が繰り返し描かれ、アパートのどの部屋のどの位置から描かれたかが正確に特定できる。また、同じピアノ、テーブル、椅子、磁器製のパンチボウル、金属製のストーヴなどが多くの絵に繰り返し登場する。室内の様子には生活感や物語をうかがわせるものがほとんどない。室内に描かれる人物は1人か2人で、後ろ向きであることが多く、正面向きに描かれたとしても顔のタッチがほとんどぼかされるか影に入っているうえ、人物は鑑賞者と視線を合わせない。

「背を向けた若い女性のいる室内」
 さらには、人物のいない、無人の室内を描いた作品も少なくない。このように、ハンマースホイの絵はタイトル以外、解釈の手がかりをほとんど排除している。同じ室内を繰り返し描く点などフェルメールのオランダ絵画の影響が指摘されるが、白と黒を基調としたモノトーンに近い色使いと静謐な画面はハンマースホイ独自のものである。
 室内画のほか、肖像画、風景画なども制作している。肖像画のモデルは家族と親しい友人に限られ、人物は鑑賞者と視線を合わせないように描かれることが多い。複数の人物を描いた集団肖像画においてもその点は同様で、画家の弟や友人らを描いた『5人の肖像』(1901 - 02年)では、描かれた5人の人物は互いに視線を交わすことなく、自らの内面と向き合っているようにみえる。宮殿などの建物や都市近郊の風景を題材にした風景画も制作しているが、ハンマースホイの描く風景には人物がほとんど登場しない。こうした静寂、寂寥感は、ジャンルや制作時期を問わず、ハンマースホイの作品全般に通じる特色である。